用意したのは、わずか1万5000円。
それだけで、一流メディアと遜色ないニュースサイトが作れてしまった。会員システムまで動かそうと思えば動く。課金は外部サービスのStripeを使う必要があるとはいえ、半月足らずでここまで作れる時代になったのだから驚く。
つい数年前までは、コードの勉強が必須だった。海外の情報を読み漁り、英語のドキュメントと格闘し、ようやく形にする。しかし今は違う。AIが翻訳し、補助し、時には代わりに書いてくれる。辞書に載っていないスラングすら瞬時に訳す。「作りたい」と思った瞬間に、作れる環境が整ってしまった。
4月に新しいSNSアカウントを作った。趣味のアカウントはフォロワーが多すぎて仕事と結びつけたくない。だからゼロから始めたのだが、当然ながらフォロワーは一桁。ここから数千まで伸ばすのは至難の業で、特に0→100が最も難しい。
前職でSNS運用を任されたときは、すでに数百のフォロワーがいた。そこから4000弱まで増やすのは苦ではなかった。特別なことは何もしていない。ただ、リニューアルした自社ニュースを投稿していただけだ。コロナ禍の追い風もあり、一般層に業界紙の存在が広く伝わった。
業界紙にとって一般人は購読者になりえない。PVが増えても利益はない。それでも、一般層に届くことで小さなニュースが全国紙やテレビに波及するという副次効果があった。
専門情報の強さを実感した瞬間だった。
それと同時にSNS(当時はTwitterだった)のトレンドに載る恐ろしさも身に染みた。
話題になることで、取材先の反応もやはり変わる。「業界紙だからお付き合いで取材に応じる」なんて雰囲気が消えていった…ような気がする。逆にウェブ記事で載せないでほしいなんてこともあった。
ただ、ウェブ媒体には恐ろしさがある。恐縮ながら、ベテラン記者が得意げに語る経験則やノウハウはまるで役に立たない。
若手ゆえに色々なことを教わる機会があった。人によって言ってることがバラバラなので「どっちだよ…」と愚痴ることもあったが、ともあれ勉強にはなった。本来、そういった記者のこだわりは答え合わせがない。紙面で載せたところで、反響なんてさっぱり分からないからだ。
ウェブが突きつける“残酷な答え合わせ”
紙媒体の記者は、反響を知る術がほとんどない。取材先に「どうでした?」と聞いたところで、本音を言う人はまずいない(記事の内容が不正確で怒っているときは別だが)。
ところがウェブメディアではPVやUUで答え合わせができてしまう。この数字は恐ろしく残酷だった。記者の実力が丸裸にされる。PVやUUだけを記者の成績表とするのは問題があるだろう。しかし、話題を呼ぶニュースを作れたかどうかは無視できない事実だ。
達筆な記者が書いた記事が読まれるとは限らない。誤字脱字が多く、とてつもなく読みにくい。そんな記事でもネタさえよければ読者を引き寄せた。重要なのは「見出し」「写真(サムネ)」「ネタ」の3つだけ。大半の読者はこの3要素で記事をクリックするか決める。
なぜ経験豊富な達筆な記者の記事が読まれないのか。「ネタ」に関しては運の要素もある。不人気分野を担当させられている記者からすれば、「ネタ」の部分はどうしようもない。「写真」についても有名人が映っているから記事が跳ねたなんて、しょうもない因子でもある。
記者のハンドリングが利くのは「見出し」だけ。この「見出し」について、ウェブと紙面では作り方を変えねばならない。だが、この本質を理解できているベテラン記者は少ない。ひょっとしたら実感はしていても受け入れ難いのだろうか? 過去の紙面であったり、記者ハンドブック、自分の培った感性で量ろうとする。その意固地さは伝統芸能的な好ましい面もあれば、時代錯誤だと困らされることも多い。
紙とウェブは“別の生き物”だ
なぜベテラン記者の記事が読まれないのか。理由は単純で、紙とウェブでは見出しの作り方が根本的に違うからだ。
紙面はプッシュ型、ウェブはプル型
紙面は縦書き、ウェブは横書き
紙面は文字数制限がある、ウェブはほぼ無限
紙面は“目で読む”、ウェブは“検索で読む”
時代は移り変わろうとしているのに、80年前の新聞テクニックを保守的に固持し、さらに誇示している。「なぜ?」と聞けば「それがルール(普通・当然・一般的・伝統)だから」という回答がなされる。だが、本当はそうではないと私は思う。
もっと本質を調べたうえで堅持すべきか、改めるべきかを思案すべきだ。
記者ハンドブックは“読みやすさの基準”ではない
なぜ新聞用字用語集「記者ハンドブック」の表記が重要なのか。別に記者ハンドブックの言葉遣いが読みやすいわけではない。優れているわけでもない。正確ではあれど、正解なわけでもない。では、なぜ多くのメディアや広報は記者ハンドブックを「聖典」のように扱うのか。
答えはとても単純、共同通信社の新聞用字用語集であるからだ。新聞社は共同通信から記事を買う。当然、共同通信の記事は「記者ハンドブック」の表記で書かれている。紙面を作る時、共同通信と自社の記事で表記がバラついては格好が悪い。かといって、共同通信社に「俺達の紙面に合わせた言葉遣いにしてくれ」と過剰な要求はできない。
ならば自社の記事を「記者ハンドブック」準拠にすればいい。
そういうわけで記者ハンドブックは重宝されている。要するに「読みやすさ」だとか「正確性」なんて要素はない。単に記事の基準を統一するために必要だった。――と私は分析している。
さすがに改訂されたが「メイン会場」を「メーン会場」だとか、未だに「セキュリティ」を「セキュリティー」と表記している古典的な用語集だ。こんな代物だが報道業界では聖書のような扱いを受けている。改訂版が出版されるとき、ウェブやSEOを意識した内容に刷新されるかと期待したが、そういった側面は一切反映されていなかった。
使える部分は多いもののレガシー的な側面が強い。「正しい日本語で伝わる文章を」とあるが、共同通信の記者ハンドブックと表記が違っても「日本語として間違っている」わけではない。
その点だけは年配であれ、若輩であれ、意識してほしいことだ。
事実、ここまでの文章には「~しているとき」「~している時」を混在させているが、たいして読みやすさは変わらない。結局のところ見栄えの問題だ。
時代の変化は、誰にとっても残酷
「見出し」においても、紙面であれば短いほうがいい。だが、それは紙面の都合であって、読者側に寄り添っていない。
いつだったか新聞社主催のイベントで「最近の子供は活字が読めない。なんと縦書きの新聞を読めないのだ!」と嘆いていたが、そんなのは当たり前だ。誰が何と言おうと、新聞紙面の記事は読みにくい。
紙面に情報を圧縮するという点でのみ優れているが、読みやすさは捨てているのだ。
その点、パソコンやスマホなどのデジタル端末は読者目線に寄り添い続けてきた。
モニターのサイズは正四角形から横長に変わった。これは読者の需要に応えた変化だ。携帯はガラケーからスマホに変わった。物理ボタンを削り、画面を広くした。変幻自在に読者の欲求に適応し続けた結果だ。
時代に合わせて変化しなければ、環境に滅ぼされる。
ただ20代のころに比べれば、私も多少は成長して大人になった。年配の世代は「時代遅れ」とはもう言わないし、思ってもいない。時代の流れが速すぎるのだ。数十年前の知識が陳腐化するのは分かるが、昨今では数年前の知識ですら役に立たないことがある。知識だけではなく価値観すらも、たった1年で周回遅れになる。
40代以上の世代からすれば、堪ったものではない。社会人になって20年以上も培った経験が、何ら役に立たないゴミになる。持て囃された才能や知見が、時には嘲笑され、若い世代から哀れまれる。受け入れがたい非情な現実だ。
よく負け惜しみで呟かれる陰口がある。「今時の若い世代は●●●ができない」だ。しかし、逆だ。必要がないから彼らはやらない。必要に迫られれば、上の世代と同程度か、それ以上に適合する。「スマホばかり使っているからPCが使えない」だが、必要になったとき、教えればすぐに使いこなす。若者の強さはそこにある。
年寄りは何度教えても駄目なのだ。最後には「前のほうがよかった」だとか「昔、使ってたアレでも同じことができる」と逃げに走る。個人差はあれども、やはり優れているのは若者だ。大企業の経営層が中堅以上の社員を早期退職させたがるのも当然である。
明日は我が身
歳上の先輩方を批判して悦に浸っている余裕はない。明日は我が身だ。令和生まれの子供は小学1年生になる。2000年生まれの世代はもう立派な社会人だ。私を追い越し、飛び越えている後輩はとてつもなく多い。
団塊の世代は若輩を叩き潰す気概があった(良いのか悪いのか、善悪は別として)。生憎ながら私にそこまでの闘争本能は無いし、ライバル意識もない。「見捨てないでくれ」と優秀な後輩に縋りつく未来しか思い浮かばないのだ。
話があちこちに飛んでしまったが、メディア業界に飛び込んでそろそろ10年になる。この節目に、今の思いを整理してみた。
変わり続ける時代の中で、自分はどこに立ち、どこへ向かうのか。その答えを探すための、第一回目の日記である。